「善を責める」ってどういうこと?
こんにちは!
小学生が「生きる力」を身につける「ミラコラキャリア塾」
今回は
ミラコラのファシリテーターがどんなことを大切にしているかという話。
責善:善を責める
え?善っていいことじゃないの?
それを責めるってどういうこと?
簡単に言うと
自分が「善(善かれと思っていること)」だと思っていることが
本当に「善」だったのか?
それが本当に最善の方法だったのか?
もっと良い方法はなかったのか?
自分で自分に問いかける
ということ
事例で説明した方がいいですね
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例えば
ミラコラで授業をしていて
集中力がないキッズがいたとしましょう
その集中力のなさはみんなに迷惑がかかるようなレベル
ファシリテーターとしては
「みんなに迷惑だから、やめよう」
と指摘をするわけです。
これはもちろん
「他のキッズに迷惑をかけてはいけない。何とかしなければ。」
との「善」からの指摘なのですが・・・
家に帰ってから
その「善」を責める(問いかける)わけです
何とかしようと思ったことは問題ないし
むしろ「善」だと思う
しかし
その方法は本当にみんなにとっての「善」だったのだろうか?
「みんなに迷惑だから、やめよう」と
ファシリテーターの自分が率先して指摘をしたけど
もしかすると「そのお題」をみんなで話し合った方が
みんなの学びになった可能性もあるのでは?
「みんなの迷惑だ」と自分は判断したけど
他のみんなは本当に「迷惑だ」と思っていたのだろうか?
みんなに聞いてみたのか?
自分の思い込みではなかったのだろうか?
そもそも集中力がなくなってしまった原因は自分になかったのか?
自分の授業が面白くなかったことがそもそもの原因ではないのか?
それを集中力がないキッズのせいにしただけじゃないのか?
このように
自分が「善」だと思って行動を起こしたことが
本当に「みんなの善」だったのか?
と問いかけ続け、自問自答し続けます。
その上で
うん、やっぱりどう考えても「みんなの善」だった!
と確信を持てる時もあれば
いや、あの時はやはり
「みんなに迷惑かどうかを聞いた上で、みんなで話し合うべきだったなあ・・・」
と過ちを改める時もある
そう思ったら次回はすぐに行動を変える
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このように
自分自身の「行動」に問いかけ
改善し続けることで
自分自身が成長するわけです。
子どもたちに成長してもらうには
まずはファシリテーターである私たちが成長すること
そのために
自分の「善」を問い続けること
そして過ちに気づいたならすぐに行動を改めること
この「成長しようとする一挙手一投足」を
子どもたちに見せることが
ファシリテーターとしての「在り方」
だと思っています。